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桐朋陸上部が果たした快挙 その「なぜ」を探る

  【1】   世界を目指し、世界を知った

桐朋陸上競技部は、開校して間もない1950年代頃から、部活動が盛んな桐朋の中でも特に活発に活動し、東京都や関東、全国の舞台で活躍する生徒も多数輩出してきました。

そんな活気ある桐朋陸上部にとっても、2024年は特に輝かしい年となりました。卒業生の豊田兼(75期=2021年卒、慶應義塾大学環境政策学部4年)が400mハードルで日本選手権を初制覇し、パリオリンピックに出場。高橋諒(78期=2024年卒、慶應義塾大学商学部1年)が十種競技で、そして高校3年生の吉澤登吾(79期=2025年卒)が800mで、ともにU2020歳未満)日本選手権で優勝し、U20世界選手権の日本代表となったのです。

中学に入学して、たまたま陸上部を選んだ生徒たちの中から複数の日本一、そして日本代表となる選手が育ったことは、陸上部だけでなく学校にとっても大きな喜びや驚きでした。学校の内外からも注目していただき、「陸上界では無名の学校から、なぜこんなに逸材が続けて出たのか?」という関心を寄せられています。

 2025年春には3人のうち2人が新たなステージへと進み、今後の飛躍が一層期待されます。この節目を機に、3人に陸上部顧問の外堀宏幸教諭とともに、活躍に至る道のりや、陸上での成長と桐朋の特徴や環境などの関わりについて率直に語ってもらうことで、快挙の記録を残し、皆様が思う「なぜ?」の答え、そして桐朋という学校の特徴も探ります。

1部では、世界の舞台に立つまでの道のりと、結果や過程への自己評価を聞きました。(文中敬称略)

 

 *2025年春に、豊田は慶應義塾大学を卒業してトヨタ自動車に入社。吉澤は桐朋高等学校を卒業して東京大学(理科類)に入学します。

 

<聞き手・構成=石井朗生、座談会実施時の写真撮影=近藤元浩(ともに40期=1986年卒、陸上部OB)>

もしかしたら、が現実的な目標に

豊田 兼

――2024年は豊田、高橋、吉澤の3人が、桐朋陸上部にとって過去になかった快挙を一気に果たしました。学校の関係者、そして周囲からは注目され、とても驚かれています。

皆さん自身が世界の舞台を意識したのはいつ頃からだったのでしょうか。

 

 豊田 高校の時は、自分にとって国際大会は全く現実味がないものでした。2021年に大学に入学して、4年の時(2024年)にあるパリオリンピックへの出場を目標に掲げ、そのためには大学3年の年(2023年)にあるワールドユニバーシティーゲームズ(大学生の世界的な総合競技大会)や世界選手権を経験しておきたい、と考えました。大学2年の冬(2023年)に日本陸上競技連盟の強化対象に選ばれてアメリカで練習する機会があり、大会ではないものの世界を経験したことで、次は大会に出られるぞ、と現実的な目標になりました。

 

 高橋 高校3年(2023年)の夏にワールドアスレティックス(世界陸連)から発表された2024年のU20世界選手権(ペルー・リマ)の参加標準記録を見たら、十種競技は7100点でした。まだ高校の八種競技しかやっておらず(2023年夏の時点の自己記録は5914点)十種競技の経験はない時でしたが、この参加標準記録であればもしかしたら自分でも目指せるのではないか、と思ったのがきっかけです。

 

 吉澤 高校2年(2023年)の秋にU18大会(18歳未満の全国大会)の800mで優勝して、来年は何を目標にしようかと考えた時に、インターハイ(全国高校総体)の優勝は1人しか果たせないけれど、U20世界選手権の代表は各種目で最大2人が選ばれるので、より可能性が高いのではないかと思いました。2024年のシーズンに入り、自分より良い記録を持っていた選手の調子があまり上がっていないようだったので、これは行けるのでは、という気持ちがさらに強くなりました。

自分を試すことを重ねて成長し、オリンピックへ

 ――国際大会出場を目標にする選手は大勢いますが、実現するのは簡単なことではありません。実現するために自分なりに取り組んだことや、意識をしたことがあったのではないですか。

 

 豊田 大学1年の20221月に足首をけがして、その年のシーズンの序盤に400mハードルで58秒くらいかかったのが悔しくて、これではだめだと奮起するようになりました。さらにその年の夏に開催された世界選手権に、小学生の時からよく知っていた選手が日本代表として出場しているのを見て、自分も世界に行きたい、という気持ちが一層強くなりました。それからは練習内容を自分で計画し、それを大学のコーチが尊重してくれて、自分の考えた通り、やりたいようにやらせてもらいました。

 

 当時は試合を「試し合い」、つまり自分を試す場だと捉えて、毎週のように、いろいろな種目を兼ねて試合に出ては、どんな結果でも受け入れながらいろいろな経験を積み、自分のプラスにしていくようにしていました。シーズンの終盤には疲労骨折の手前くらいの状況になりましたが、多くの経験を重ねたことが成長につながり、次の年のワールドユニバーシティーゲームズ出場、さらに翌年のパリオリンピックにつながったと思います。

やるべきことをやれば、目標に届く

高橋 諒

――高橋はU20世界選手権を意識した時にはまだ十種競技を一度も経験していませんでした。そこから短期間で世界のレベルに達するのは難しくなかったですか。

 

 高橋 性格的に「やればできるでしょ」と前向きに考えるタイプですし、トヨケン先輩(陸上部の後輩たちが豊田を慕った呼び方)や吉澤と違って十種競技は10種目もあるから、やるべきことが明確なので、きちんと練習すれば目標に届くと考えていました。

 

 吉澤 種目がたくさんあるからやることが明確、というのがわかりにくいけれど、どういう意味?

 

 高橋 十種競技は、高校八種競技の8種目に棒高跳と円盤投が加わるんだけど(*)、高校で経験がない分、伸び率が無限大。だから、10種目すべての中身を極めていこうと思ったら重すぎて難しいけれど、高校でもやっている8種目のレベルを落とさずにプラスの2種目をしっかりやれば、まだ経験のない十種競技でもそれなりにできるのではないか、と思ったんだよね。そういう意味で、自分としては明確でした。

 

*高校八種競技は1日目に100m-走幅跳-砲丸投(6.0kg)-400m2日目に110mハードル-やり投-走高跳-1500mを行う。十種競技は1日目に100m-走幅跳-砲丸投(7.26kg)-走高跳-400m2日目に110mハードル-円盤投-棒高跳-やり投-1500mがあり、高校八種競技になかった円盤投と棒高跳が加わる。

 

 吉澤 10種目もあるとやるべきことが明確になりにくいのではないか、と思ったんだけど。

 

 高橋 長い目で見るとそうかもしれない。でも、次の年のU20世界選手権を目標にした話になると、2種目をやればいい、と思ってたよ。

いつも通りの練習を積んで、ただ速くなればいい

吉澤 登吾

――吉澤はどのように取り組んでいましたか。

 

 吉澤 あまり目標は意識していませんでした。一日ずつ、いつも通りに普通に練習して、ただ速くなれば、結果的に目標にも届く。それだけでしたね。

 

 豊田 でも、速くならない時もあったり、それが続いたりはしなかったの? その時に辛くなったりしなかった?

 

 吉澤 高2の秋にU18大会で優勝した後は、冬になって大会がないから、本当に速くなっているかどうかがわからなくて、ただがんばっているだけでした。冬の最初の頃は練習でもタイムが上がらず遅かった時期もあった。でも、特別に何かはなくて、ただがんばるだけ。僕はトヨケン先輩や高橋先輩のように高3の秋や冬も競技や練習を継続するのではなくて、高3の夏で陸上から離れることにしていたし、その後もどうなるかわからないから(*)、やっている時は妥協なく、後悔がないようにやろうとは思っていました。

 

*吉澤は高3の8月に開催されたU20世界選手権を最後に陸上から離れた。その時点では大学進学後の競技継続については未定だったが、20253月に進学先が決まり、大学でも競技を行うことにした。

どん底の経験は、必ず糧になる

――3人とも日本代表になり、目標とする国際大会に出場した。ですが、そこに至る過程や、日本代表として出場した大会での結果は、決して思い通りにならなかったところもあったと思います。過程や結果を自分ではどう評価していますか。また、その要因や背景に思い当たるところはありますか。

 

 豊田 思い返したくない話でもありますが・・・。6月下旬の日本選手権でオリンピック出場を決めた直後に太もものけがをして、医者からは全治6週間と言われたけれど、5週間後にはオリンピックのレースを迎えるので急ピッチで治さなければならない、という状況でした。普通に考えれば無理なことですが、オリンピックをあきらめるわけにはいかないので、自分自身をだますようにしながら、やれる範囲のことをやってパリに向かいました。現地に入ってから着実に練習ができていたものの、レース5日前にまたけがをしてしまって、オリンピックではフィニッシュするのが精いっぱいというレースになってしまいました(予選で自己記録の4799より5秒余り遅い5362。敗者復活戦は欠場)。自分が思い描いていたオリンピックとは全く違うものになってしまった一方で、これ以上のどん底はないという経験ができたので、そういう意味では競技を続けていく上でも絶対に糧になる大会だったと思います。

 高橋 僕もU20世界選手権で、十種競技の最初の種目である100mのスタート直前の練習で肉離れをしてしまい、100mをなんとかフィニッシュしただけで次の走幅跳からは棄権しました。それ自体は悔しかったですが、大会に向けて練習を積んで、当日に向けてだんだん動きが良くなっていましたし、十分な形ではなかったけれどそういう舞台で走れたことは誇りに思っているので、全体的に見ればいい経験になりました。また世界の大会に出たいという気持ちにもなっています。

 

 吉澤 U20世界選手権にはフルに自分の力を出せる状態で臨むことができませんでした。2カ月前のU20日本選手権で優勝した後は、状態があまり良くならず、そのまま行ってしまいました。

 

 外堀 豊田や高橋のけがは誰でも起き得ることで仕方ないとも思うけれど、吉澤はU20日本選手権の後もやるべきことを間違いなくやり、いい練習もできたはずなのに、7月末のインターハイ(4位)も含めて、なんであんなに調子が戻らなかったのかが未だにわからないんだよね。

 

 吉澤 U20世界選手権の時に日本選手団のコーチの方とも話していろいろ考えたのですが、U20日本選手権で自己記録を一気に2秒も更新する147秒台の記録を出したことで、自分の実力が147秒だと思ってそれを前提にしたレベルの練習を積んだのがあまり良くなかったかもしれません。それまでは149秒のレベルの練習をしていたのに、いきなり変わったことで、はまらなくなったのかな、と。でも明確にはわかりませんね。そういうところこそ陸上という感じはあるけれど。

 

 --でも、吉澤はU20世界選手権で予選を通過して準決勝まで進み、この3人の中では一番いい結果を出しています。

 

 

 吉澤 800mの出場者の中で自分の実力を考えれば準決勝に行けて当然だし、ミスをしても準決勝には進めた、という状況だったと思うので、その幅の中では収まりました。でも、もっと行けるイメージがあったのですが。

手が届きそうであり、想像を超えてもいた世界

パリオリンピックおよびU20世界選手権前に集まった3人

――目指している段階でイメージしていた世界の大会と、実際に行って体験した世界の大会では違いがありましたか。

 

 豊田 日本選手権の決勝で(日本選手で史上3人目となる)47秒台を出して優勝した時は、オリンピックで戦うことを想定して前半から飛ばしていき、この走りで世界とも戦いたいという思いでパリへの切符を手にしました。なので、オリンピックでは走り切るのが精いっぱいという時点で戦えてもいなくて、想定と全く違ってしまいました。オリンピックの400mハードルの決勝は競技場に行って見たのですが、この場に自分がいてもおかしくないな、と思えたので、今後の世界の大会にぜひ日本代表として戻り、決勝に出たいです。パリの決勝で4位に入ったフランスの選手は大会前までそれほど速くなくて、オリンピックに照準を合わせて1秒くらい記録を更新していました。それを見ていて悔しかったですね。

 

 高橋 前回(2022年)のU20世界選手権の記録などを見て、大会前には自分も8位以内に入賞できるんじゃないかと思っていました。でもけがをした後に観客席から十種競技の様子を見ていたら、(南半球の8月は冬でもあり気温が10℃近くまで下がる中で行われた)天候の条件も含めて考えると、自分が8位に入る点数を取るのは無理だったと思いました。それと、優勝したチェコの選手は自分より1年遅い2006年生まれなのに、その得点と自分のベストの得点とは、自分の1種目半くらいに相当する点差があったんです。その選手に勝てる未来が見えないので、それは悔しかったですね。

 

 ――悔しい気持ちになったのは、そのチェコの選手にいずれは勝ちたいと思っているからですか。

 

 高橋 今まで日本で混成競技をやっていて、この人には勝てないなと思ったことがなかったので。もちろん、大人で自分よりある程度年代が上の選手を見ていて、今は勝てないな、と思うことはありました。でも、同年代でこれほど力が離れている選手を見たのは初めての経験で、想像もできなかったので、新鮮でもありました。

 

 

 吉澤 僕は、世界の大会と言っても、思ったより普通の大会だと思いました。周囲の選手のレベルが上がっただけで、国内と同じようないつも通りの大会だったかな。観客も東京都の大会と同じくらいだったし(笑い)。速い選手はいたけど、想像がつく範囲ではありました。それより速い選手は見たことがないから想像できませんが。

納得でき、自信を得たシーズン

――日本代表として出場する目標を達成できた、でもその大会で満足な結果は出せなかった、ということも含めて、2024年に自分が成し遂げたことをどう評価していますか。

 

 豊田 タイムが47秒台に突入できたことは評価しています。オリンピックのような大会で他の選手と競り合った時に出るタイムであり、日本選手権のような独走のレースで出るとは思っていなかったので。その前年にオリンピックの参加標準記録(4870)を突破していたことも大きかったと思います。標準を切っていたため6月下旬の日本選手権でしっかり走れば代表に入れるとわかっていて、5月に出場したレースではいろいろ試すこともできましたから。

 

 高橋 いい思いをたくさんできた年でした。大学に入って高校の八種競技から十種競技に変わったけれど、5月にすぐ関東インカレで優勝できたし、U20世界選手権にも出られたので。U20世界選手権で負ったけがのために9月の日本インカレに出られず1年生優勝ができなかったのは心残りですが、年間を通してみれば、環境が変わった中でもこれだけ力が出せたことは自信になりました。

 

 吉澤 高2の冬の頃から、高3では147秒くらいを目指そうと思っていたので、結果的にそのタイムが出せたのはよかったです。けれど、納得がいくレース、ちゃんと走れたレースがそのタイムを出せたU20日本選手権しかなかったのは、「うーん・・・」という感じの1年でした。その1本に関してはこれまでのレースの中で一番良かったし、その1本だけでも1年満足できたと言えるレースでした。

 

 ――その1本を出すことも簡単ではないので、満足いくレースができたのは価値があることだと思います。でも3人とも目指しているレベルが高いので、周囲から見れば十分な結果なのに、レース後の会話が弾まなくて雰囲気がどんよりする、みたいなこともありましたね。

 

 吉澤 いい結果を出すと、次はそれ以上に行けると思ってしまう。本当はたまたま出たもので、実際の実力はそうでないかもしれないのに、そう思って期待して、狙ってしまうのが良くないのかもしれません。

 

 

 

豊田 兼(とよだ けん)

2002年生まれ。小学校から桐朋で過ごし、クラブチームで陸上にも取り組む。2015年に桐朋中学校に入学し陸上競技部に入部。中学では走幅跳、四種競技など幅広い種目に取り組み、高校ではハードルを主体にして、高校2年の2019年に全国高校総体(インターハイ)400mハードルで全国大会初出場。高校3年の2020年はインターハイの代替大会だった全国高校生大会で110mハードル4位、400mハードル5位入賞。2021年に慶應義塾大学環境情報学部入学後は194cmの長身を生かして幅広い種目に取り組み、大学3年の2023年に、大学生の世界大会であるワールドユニバーシティーゲームズで自身初の日本代表となり、110mハードルではあらゆる世界レベルの大会を通じて日本選手初となる金メダルを獲得。日本学生対校選手権(日本インカレ)400mハードル優勝。大学4年の2024年に日本選手権の400mハールで優勝しパリオリンピックに日本代表として出場した。2025年の大学卒業後はトヨタ自動車に入社し、競技を継続する。

【自己記録】400mハードル=4799(日本歴代3位=20253月末時点・以下同じ)、110mハードル=1329(日本歴代6位)、400m4557(日本歴代18位)

 

高橋 諒(たかはし・りょう)

2005年生まれ。小学生の時は水泳、サッカー、テニスなどをやりながら陸上の大会にも出場。2018年に桐朋中学校に入学し陸上部に入部。中学2年の2019年に全国中学校選手権の四種競技に出場。中学3年の2020年には同選手権の代替大会だった全国中学生大会で四種競技2位入賞。高校1年の2021年にインターハイの八種競技で同種目史上初の1年生優勝を達成し、翌年に2連覇。高校3年の2023年はけがのためインターハイ出場を逃したが、秋に日本高校記録(6264点)を樹立。2024年に慶應義塾大学商学部に入学し、関東学生対校選手権(関東インカレ)の十種競技で同種目史上初の1年生優勝。U2020歳未満)日本選手権も制し、U20世界選手権に日本代表として出場した。

【自己記録】十種競技=7235点(U20日本最高)、やり投=65m00、走幅跳=7m40110mハードル=1453

 

吉澤 登吾(よしざわ・とうご)

2006年生まれ。小学校からサッカーに取り組み、2019年に桐朋中学校に入学し陸上部に入部。中学2年の2020年に全国中学校選手権の代替大会だった全国中学生大会の800m5位入賞。中学3年の2021年はけがのため目立った結果を残せなかったが、高校1年の2022年にU20日本選手権で6位入賞。高校2年の2023年にU18大会(全国大会)優勝。高校3年の2024年にU20日本選手権で優勝し、U20世界選手権に日本代表として出場し準決勝進出。インターハイは4位入賞。2025年の高校卒業後は東京大学理科Ⅰ類に進学し、競技の継続も予定している。

【自己記録】800m14780(高校日本歴代5位)、400m48251500m35805

 

外堀 宏幸(ほかほり・ひろゆき)

1976年生まれ、鹿児島県出身。鹿児島・東郷中3年の1991年にマークした走高跳の2m02は現在も九州中学記録として残る。鹿児島・松陽高、筑波大学体育専門学群を経て、筑波大学大学院修士課程1年の2000年に日本選手権2位入賞。同2年の2001年に日本インカレ優勝。自己記録は2m232003年から桐朋中学・高等学校に保健体育科教諭として着任。陸上部顧問としても基本的な動きや体力を身に着け、幅広い種目への取り組みを重視した指導を行う。20212024年には東京都中学校体育連盟陸上競技専門部強化委員長を務めた。