すでに同期の数名が執筆してくれている為、お読みになった方には私が所属していた頃の陸上部の雰囲気がいくらか伝わっているかと思います。私は中3で入部してから高3の引退を迎えるまでの間に陸上競技やチームへの考え方が大きく変化し、それとともに競技への取組み方や目標が変わっていきました。入部当初は決して真面目に取り組んでいた訳ではない私がどのようにして陸上競技と向き合うようになり、高校3年の引退まで続けることが出来たのか。そうした心境の変化を転機となった出来事と一緒に記すことで、後輩のみなさんの参考になれば幸いです。
○入部 中学3年4月
○桐朋時代の記録
初レース 100m 中学3年春 13秒3
400m 高校2年4月 54秒70
○高校ベスト 400m49秒90
4×400mR 3分16秒33(1走)
○桐朋卒業後も大学で陸上競技を続けております
入部 中学3年 春
中学2年の終わりにそれまで所属していた卓球部を辞めた私は何かしら運動をしようという軽い動機で陸上部に入部しました。入部はしたものの、当時はボーイスカウトでの活動に重心を置いていたため、陸上競技での目標もなく熱心に取り組んでいるわけではありませんでした。特にこの年は夏合宿にも参加しなかったため、ほんとうに陸上部に所属しているのかどうかも怪しい状態でした
前述のボーイスカウトでの活動が夏に一つの区切りを迎え、少しずつ陸上競技と向き合う時間が増えていきました。冬季練習に入ると高校生の先輩方と一緒に練習するようになり、最後のシーズンにかける3年生の気迫を目の当たりしました。この頃から、「自分が不真面目な態度でいて先輩方に不快な思いをさせてはいけない」と思うようになり、動機が受け身ではあるものの練習に対して以前よりも積極的になりました。春の総体支部予選では補助員として二日間同期の福地の付き添いをしながら、彼を始めとする同期が何人も試合に出ている様子を見て、自分もいつか総体路線の試合に出場したいという思いが芽生えました。
同期には福地や飯島や丸山、後輩には佐伯君や和泉君(ともに65期)といった走力のある選手が沢山おりました。私はこのまま100mブロックにいても試合には出場できないと思い、高校1年の冬季練習から400mブロックへ移りました。400mは辛い種目というイメージがありましたが、先輩方の後押しや高校3年生までに一度は総体路線の試合に出たいという思いが勝って決断しました。
この年の冬から当時中学3年生の佐伯君と一緒に練習をこなすようになりました。彼は中学3年の夏に400mで全日中を経験しており、50秒98という素晴らしい記録も持っていました。この頃の私は「彼と一緒に練習していればいつか自分の記録も伸びるだろう」という思いと、「中学で実績を残した彼が高校で伸びなかったら練習相手が悪かった所為だと思われるのが嫌だ」という思いで練習に食らいついていました。あまりのキツさに不満を口にしつつも、300mや500mなどは後で抜かされるのが分かっていながらガンガン突っ込んで行きました。
高2の春に総体路線の400m(初レース、54秒70)に出場させていただいて以降、少しずつ記録を伸ばしていました。マイルでは都総体で外れた以外は1走を担っていました。私学大会のマイル決勝で、直前の400mH決勝で疲れ切ってしまった丸山(64期主将)の代わりに急遽短短の福地が走ることになりました。練習での彼は決して長い距離が強いタイプではありませんでしたが、ラップ50秒5で走りチーム2番の働きをしました。短短の福地が自分よりもいい走りをしたことで良い意味で対抗心が芽生えたと同時に、このまま皆が速くなればインターハイも夢じゃないと思うようになりました。
都新人でも桐朋は順調にマイルの決勝に進出しました。決勝では補欠の予定だった阿津君(65期)が急遽走ることになり、突然のことに彼はかなりのプレッシャーを感じているようでした。400m専門であり最上級生でもある私は1走で良い走りをすることで少しでも後の走者に楽をさせてあげたいという思いで走りましたが、結果は4位でわずかな差で関東新人への出場を逃しました。私自身かなり悔しい思いをしましたが、私以上に急遽4走を走った阿津君はもっとキツイ思いをしているはずであると思い、後の走者が抜かれることのないような大差で渡そうという思いを持つようになりました。
マイルリレーのスタート前。
1走を務め、チームの流れをつくった。
400mを始めた当初は総体路線に出ることを目標にしていた私ですが、最後の1年はマイルリレーでインターハイの決勝を意識するようになりました。個人での目標はあまり意識していませんでしたが、マイルの為に少しでも速くなろうという気持ちで取り組んでいました。単純に400mを速くなるのではなく、2走が加速しやすいバトンパスが出来るようにラスト100mで極力失速しないマイル1走の走りを目指していました。
総体路線が始まり、桐朋高校のマイルは順調に勝ち上がり関東大会まで進むことができました。私個人も都総体は400m予選9位で悔しい思いをしたものの、49秒台に突入することができ、チームの為に力を磨いたことで個人の記録も伸ばすことが出来ていました。
南関東大会マイルのことは今でもよく覚えています。都総体後に他県の結果を皆で見て、3分18秒を切ることができれば決勝進出とインターハイが見えるだろうという話をしていました。楽に出せる記録ではないことは分かっていましたが、チーム全員の記録が伸びており自信を持って当日を迎えました。結果は以前「我が時代」を執筆してくれた福地や辻が言っているように、3分16秒33という目標を大きく上回った記録を出したにも関わらず組5着で敗退してしまいました。敗退が決まった瞬間、私はインターハイに出られなくなった悔しさよりも、記録を出せたことの喜びが勝っていたことを覚えています。周りの皆が悔しがっているにも関わらず自分だけ内心喜んでいることがひどく恥かしいことに思え、実は自分は本気でインターハイを目指していなかったのではないかと、引退してからもずっと思い悩むことになりました。大学入学後も競技を続けてこれたのはインターハイに行けなかった悔しさだけでなく、このときの自分に対する何とも言えない憤りがあったからではないかと思います。
2013年3月の合宿。
生徒に混ざり、4年ぶりにバトンをつないだ1600mR桐朋記録のメンバー。
振り返ってみると、チームの為に自分に何が出来るかを真剣に考えるようになってから自分のモチベーションや記録も上がっていった3年間でした。陸上競技は個人種目なので必要以上にチーム優先になってしまって個人の自由を無くしてしまうのはよくないことです。しかし、自分の為では妥協してしまうことでもチームの為なら頑張れることもあれば、チームからもらえる刺激が力になることもあります。私自身もマイル1走としての自分の役目を果たすことがモチベーションになっていましたし、後の走者には福地、佐伯、阿津、丸山という頼りになる仲間が待っていてくれる安心感の中で取り組むことができました。
ありきたりですが個人とチームが「一人はチームの為に、チームは一人の為に」の関係になれることが、100%以上の力を発揮する為に大事なことなのだと思います。これから桐朋陸上部で過ごす後輩には「このチームの為なら何でも出来る」と言えるくらいのチームを作っていってもらえれば、と思います。
また、私は南関東大会後に後悔したと書きましたが、「本人は努力しているつもりでも実は甘かった」ということは誰にでもあることです。自分の甘さに気づくことが出来るのは大抵うまくいかなかったときなので、甘さを後悔するのではなく甘さに気付けたことを前向きに捉えられるようになることが大事かと思います。
長文となりましたが以上です。桐朋陸上部のさらなる栄光と発展を願っています