右上のピースサインが辻。常にチームを支えてくれました。
2009年6月21日。私はいつものように、ビデオカメラを携えて観客席に立っていました。4×400メートルリレー(マイル)の南関東大会予選が行われた日です。この年のマイルチームは春先から、試合ごとに記録を伸ばしていました。そして迎えた南関東大会。桐朋新記録となる3分16秒33を出したにも関わらず、マイルは予選で敗退します。私はスタンドで一人、しばらく茫然としていました。終わったということが信じられなかったのです。あれから4年近く経ちますが、あの瞬間を今でもはっきりと覚えています。桐朋陸上競技部で過ごした5年間の中で、最も印象に残っている出来事です。
予選敗退とはなってしまいましたが、桐朋新が生まれた瞬間に立ち会えたのは幸運だったと思っています。だけれども一方で、こうして振り返るときに私は悔しさを覚えずにはいられません。一番印象に残っている瞬間が、自分の試合ではないのだから。どうしてこうなってしまったのだろう。高校時代が遠くなればなるほど、そんな気持ちが強くなっていきます。偉大な先輩方をはじめ、優れた競技者たちが並ぶ中でこの場を借りて私が書かせていただくのは、情けない高校生活への反省文です。
私は中長距離ブロックに所属していました。当初は水泳部にいたため、陸上部に入部したのは中学1年の1月と若干遅めです。入部した理由は、水泳部で冬期の陸練として行われていた持久走で先輩よりも速く走れ、「もしかしたら陸上の長距離が向いているのでは」と思ったためでした。最初のころは記録もとんとん調子で伸びていったのですが、徐々にその伸びが鈍くなっていきました。頑張りどころだったのでしょう。しかし私は頑張れませんでした。練習していても記録が伸びず、投げやりな気持ちが大きくなってしまっていたと思います。途中で桐朋祭委員会に入りました。目の前の困難から逃げようと、言い訳ばかりをついていたのです。
一方で、中高共にマネージャーという役割を与えていただいてもいました。冒頭にあるように、南関東大会でビデオカメラを構えていたのもそのためです。もともとチームのために動くことは性に合っていると感じていました。そのうち「自分はサポート向きなのではないか」という気持ちが強くなっていき、マネージャーという立場で陸上部に貢献することを自分の役割にしようと考えるようになっていました。
マネージャーとしては、それなりの仕事をしていたと思います。南関東大会にも同行させていただくことができました。しかし競技者としてどうだったのだろうと考えるとき、自信を持って「私は陸上競技をやっていた」とは言えません。どうして継続して頑張らなかったのだろうと後悔ばかりします。というのも高2の夏から高3にかけて、低いレベルではありましたが自己記録を更新し、「自分は成長している」という感覚を初めて覚えることができたからです。競技ってこんなに楽しいのかと、ようやく気づけた時期でした。自分はマネージャーで頑張ればいいやという安易な気持ちに逃げて、やればできていたかもしれなかったことをしなかったのだ。私は高校3年の引退の時から、そんなむしゃくしゃした気持ちをずっと抱え続けています。
大学に進学してから、私は縁あって様々な学生アスリートと接する機会を多く持ちました。また、同期も何らかの形で競技を続けている人が多く、今でも集まると必ず陸上の話題に花が咲きます。彼らの姿を見るたびに、努力できなかった自分を情けなく思います。自分の弱さに気付かされた、そのような意味では私も陸上競技に育てられた人間です。そして、今や強豪となった桐朋陸上競技部に所属していたことを本当に誇らしく思っています。しかし、たった一度しか訪れない高校時代に自分の限界に挑戦することを避けたことへの後ろめたさは、いつまでも消えることがありません。